ダッシュテーション

カフェとダンスとオタ活と。まるで想像しなかった30代を過ごしている独身㊛のブログです。

内なるペストを見つめて 100分de名著:カミュ「ペスト」第3回

こんにちは、コミンです。

 

TV番組100分de名著:ベール・カミュ著「ペスト」の第3回について書いていきます。

 第1回、第2回はこちらからどうぞ!!

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 第2回では、登場人物たちが自分自身のモラルを見つめて、ペストが蔓延した状況下で自分にできることは何かを考え行動しはじめたところでした。

第3回では、感染症としてのペストだけでなく、それぞれの心のなかにある『ペスト』と向き合う姿が描かれています。

 

それでは見ていきましょう。

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※以下の引用はすべてアルベール・カミュ著『ペスト』からです。

 

9月になるとペストは停滞状態に入ります。リウー達、保健隊の人々は死と隣り合わせになりながらも日々闘いを続けていたが、心身ともに疲れ果てています。そんななかひとり元気づいていたのが、密売人コタールでした。犯罪者でありながら、ペストのおかげで逮捕の心配から逃れ自由を謳歌しているのです。
要するに、ペストはコタールの味方をした。孤独でありながら孤独でいたくない一人の男を自分の共犯者に仕立てあげたのだ。じっさい、明らかにコタールはペストの共犯者、こうした事態を楽しんでいる共犯者だった。
ある晩、タルーはコタールにオペラ鑑賞に誘われます。一部の市民は、ペストの最中でも夜の街で享楽的な遊びにはしっていたのです。しかし、満員の劇場で事件が起きます。突然、オペラ歌手がペストで倒れ、観客が出口に殺到しました。
 
中条先生の解説
ペスト以前、コタールは逮捕の恐怖に追いつめられて自殺を図ろうとまでしていた。しかしペストの状況下では市民全員が恐怖に怯えている。恐怖を感じているという意味ではコタールも同じであり、市民と共通感覚を持てたという意味で、ペストはコタールに味方をしたといえる。
ある災厄が襲ってきたとしてもみんなが一斉にダメになってしまうのではなく、むしろそこでうまく生き延びる、自由になる人間もいるということを見逃さないところが、カミュの小説的な想像力のよさである。
また、町の人々が燕尾服に身を包みオペラ鑑賞に行くというのは、一種の現実逃避であり不安を忘れたいからである。しかし本当の意味では恐怖を忘れることはできない。その象徴が歌手がペストで倒れ出口に殺到する人々である。一瞬にして恐怖が露呈したのだ。
 
一方、新聞記者のランベールは保健隊としての職務に励みながら、同時に犯罪者組織の手引きで町を脱出する計画も着々と整えていました。急いで町を出たほうがいいと忠告するリウーに、ランベールは尋ねます。
「でも、どうしてあなたは僕が出ていくのを止めないんです?」
「たぶん、自分も何かしたいからでしょう。幸福のために」
いよいよ町を出るという直前、ランベールはリウーのもとに、話があると訪れます。
「僕は行きません。あなたたちと一緒に残ります。自分一人だけ幸福になるのは恥ずべきことかもしれません。僕はずっとこの町にとってよそ者であなたたちとは何の関係もないと思っていました。しかし、こうして見たとおりのことを見てしまったいま、望むと望まないにかかわらず、僕はもうこの町の人間だとわかりました。この事件は我々みんなに関係あることなんです」
 
中条先生の解説
ランベールはもともと個人主義者で、自分の幸福(恋人と暮らす)の価値を優先させていたが、リウーと出会い、現実と対応して自分にできることを黙々と行動する、理念だけに頼るのではない人間の生き方を知って共感する。いってみれば連帯の可能性が生まれた。「連帯」というと、最近では政治的な色合いがついてしまって、言葉として使いづらくなっているが、カミュのいう「連帯」とは、実践的な行動のなかで、人と人とが結びつくということをいう。具体的な行動の結果として連帯が生まれ、さらなる行動に結びつくということである。
 
日々患者と向き合い、患者を救うために職務を全うしているということは「闘い」であって「幸福」ではありません。闘いは必要なことですが、追い求めるものとはちがって
、それしかできない状況が長く続くとしんどくなってきます。
長い闘いのなかで、自分でなくても誰かが幸福を掴んでくれること、それも自分応援できる人が掴んでくれることで、擬似的ではあるけれど自分も幸福のために行動したと思えるのかもしれませんね。
 
10月下旬、判事の息子であるオトン少年がペストにかかります。ペスト菌はまたたく間に幼い体を蝕み、病状は絶望的でした。リウーは最後の望みともいえる血清をオトン少年に注射しますが、そのあと少年はひどく苦しみ出します。
ただひとり、少年だけが全力をふり絞って戦っていた。突然、少年は足を折り曲げ、両腿を下腹近くまで引きよせ、動かなくなった。そして初めて目を開き、目の前のリウーを見つめた。
いまや灰色の粘土のなかで凝固したような落ち窪んだ顔の真ん中で、口が開きほとんど間髪を入れず、悲鳴がほとばしりでて途切れることなく長く続いた。
すべての人間から同時に放たれたかと思うほど人間離れした叫びだった。
 
壮絶な苦しみの果てに、オトン少年は亡くなりました。その死に全員が強い衝撃を受け、疲労の極限だったリウーは、パヌルー神父に『あの子だけはともかく罪のないものだった』と怒りをぶつけるのです。
「すみません。疲れすぎてまともじゃなくなっていた。それに、この町では私はもう怒りしか感じられないことが多いんです」
(パヌルー)「それはわかります。(略)しかし、私たちはたぶん、自分の理解できないことを愛さねばならないのです」
「違います、神父さん。愛について私はあなたと違う考えをもっています。そして、子供たちが苦しめられるように創造されたこの世界を愛するなんて、私は死んでも拒否します」
中条先生の解説
カミュにとっては、罪のない子供が死んでいくということが、世界の不条理の究極のイメージとしてある。他の場所でも「子供たちが罪なく死んでいく世界には絶対に同意しない」と言っている。
キリスト教にはどんなに苦しんだとしても来世で救われるという考え方があるが、カミュ自身はその救済措置を信じていない。無垢な子供が死んでいくのは単なる死でしかなく、そういった無力感に苛まれる自分に対して、神による救いだとか、人類の救済だ、などといわれると苛立ち怒りを滲ませざるをえない。ただし、神を信じる人に対して神を否定するようなことはカミュはしない。
リウーの言葉として、”「人間の救済なんて、私にはあまりにも大げさな言葉です。私は(略)人間の身体の健やかさに関心があるんです。まず何よりも健やかな体ですよ」”という一節があるが、さいごの一文は直訳すると「健康第一」である。あまりにもリアルで実践すぎる言葉で滑稽ですらあるが、ここでもカミュは観念や理念ではなく”現実”を見ている。そのうえでパヌルーに対して、「我々は一緒に闘っているのだから、神でさえも今では我々を引き離すことはできない」と皮肉めいたことをいう。リウーの懐の深さである。
パヌルー自身も幼い子供の死に心を揺さぶられ、神の意思は何なのだろうと突きつめて考えていきます。
オトン少年の死後、パヌルーも保健隊に入り最前線で献身的に働きました。
大風の日、パヌルーはペスト発生から2回目の説教を行います。そこでパヌルーは、もし自分が神の御意思でペストになったら、治療は受けないと宣言。それから数日後、パヌルーは体調を崩すが、自らの言葉通り治療を拒み続けます。みるみる病状は悪化し、ペストかどうかわからないままパヌルーは息を引き取りました。
中条先生の解説
オトン少年の死によって、神の意思とは何かという疑念を抱いたパヌルーだが、ギリギリのところで神の意思に従うこと、つまり病気になることを選んだ。逆の立場からいえばペストによる死を受け入れることによって神の存在を証明しようとしたとも読める。パヌルー神父にとってこの行動は神の意志の肯定である。最終的にリウーは、パヌルー神父の死はペストかどうかわからない『疑わしき症例』と結論づけている。そうなると彼の死が神による救済なのか、何の意味もない単なる死なのかわからないまま宙づりになってしまう。パヌルーは神の意志による死であれば殉教者になれるはずだが、結局なれなかった。別の死因であったという完全否定もしていないが、人間の死は神によって何か意味を与えられるものではないというカミュの思想によるものだろう。
 
パヌルー神父の死が「ペストによるものかわからない」というのはなんとも皮肉です。
ペストになることが神の導きであれば受け入れるために治療をしなかったことで、神の意志による死であるかもわからなくなってしまいました。
 
11月ペストの進行は長い横ばい状態に。
ある夜、海を眺めながらタルーはリウーに向かって告白を始めます。
「僕はこの町とこの伝染病を知るずっと前から、とっくにペストで苦しんでいたんだ。僕の関心の的は死刑宣告だった。その結果、僕は世間でいう政治運動をやるようになった。ペスト患者になりたくなかったそれだけの理由だ。僕は、自分の生きている社会が死刑宣告という基礎の上に成り立っていると考え、死刑宣告と戦うことで、殺人と戦うことができると信じたんだ」
タルーは検察官だった父が、死刑の論告求刑をする場に立ち会い深いトラウマを抱えます。家を飛び出し、社会正義実現のためにヨーロッパ各地の政治運動に身を投じるが、そのほとんどは殺人を容認していた。目の前で銃殺刑を目撃したのをきっかけに、タルーは活動をやめました。
「僕は無数の人間の死に間接的に同意していたし、必然的に死をもたらす行動や原理を善と認めることで、そうして死を引き起こしていたのだと知った。誰でも自分のうちにペストをもっている。なぜなら、この世の誰ひとりとしてペストの害から逃れられる者はいないからだ」
中条先生の解説
ここでタルーがいう『ペスト』とは『人を殺すこと』だ。法廷において正義の名の下に死刑を宣告することも、ペストも人を殺すという点では同じである。普通の人は、人を殺すということは避けがたい現実だと考えるが、タルーはそこに加担しているということに苦しみ続ける。そういうシステムのなかで生きていることが自分の内なるペストだと感じている。
タルーは「自分が人殺しの側に回っていたということが僕は死ぬほど恥ずかしかった」という。システムそのものが戦争や死刑といったものを容認している限り、人の死を容認しているわけで、自分はそれに加担していると考えた。さらにそれに反対する政治運動も人殺しを容認していたので、タルーは八方塞がりであった。
 
さらにタル―はこう続けます。
「僕は、直接にしろ間接にしろ、いい理由からにしろ悪い理由からにしろ、人を死なせたり、死なせることを正当化しようとする、一切のものを拒否しようと決心したのだ。(略)
僕は(略)あらゆる場合に犠牲者の側に立つことを決めたのだ」
 
中条先生の解説
殺すものと殺されるものがいた場合に、自分は殺される側に立つという決意表明である。極端なたとえではあるが、タルーの思想を通じてカミュは自分の思想の極点を語ったのだろう。 今まで、ペストは外側から襲ってくる脅威として認識されていたが、タルーの登場によってみんな内なるペストをもっているという展開に。内なるペストとは自分のなかにある「悪」である。それをみんな見ようとしないが、それを見なければ先へ進めないということである。
 
 これまでは、ペスト(不条理なもの)に襲われる立場だったのが、タル―の告白から読者は自分が殺す側に立つ観点を与えられました。ペストは外から襲ってくるものだけでなく、自分の内側にあるものに気づかされることでもあるのです。
コロナウィルスが蔓延したことで、私たちは病気になってしまうかもしれない立場でありながら、誰かに感染させてしまうかもしれない立場になります。
また、心ない言葉で誰かを傷つけたり、差別をしたりすることでも加害者になっています。その人は自分の正義にもとづいて行動している気になっているかもしれませんが、果たしてそうでしょうか。
むやみに誰かが傷つくことが正義なはずがありません。
 
 
自身の内なるペストを告白したタル―は、少年の死によって敗北を深めたリウーは、新たな価値観に気づいて町を出るのをやめたランベールは、どうなっていくのか。
物語は次回でいよいよ結末を迎えます。
 
第四回へ続く