ダッシュテーション

カフェとダンスとオタ活と。まるで想像しなかった30代を過ごしている独身㊛のブログです。

ペストから得たもの:100分de名著 アルベール・カミュ著『ペスト』最終回

こんにちは、コミンです。

 

100分de名著を通して、アルベール・カミュ著『ペスト』を読む記事の最終回です。

これまでの3回を通して、回避することのできない不条理に襲われたときに人間が陥りやすい心理や、それに立ち向かうための行動、そしてペスト(不条理)は自分自身の内面にも存在することだということを見てきました。

 

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最終回となる第4回では、ゲストに内田樹さんをお迎えしていました。

フランス文学者でもあり武道家でもある内田さんは、カミュについては研究家というよりもむしろファンであるとのこと。

カミュの生き方に憧れがあり、またカミュの文章は『生気にあふれ、生きることを享受する能力が高い人の文体。読んでいるだけで生命力が湧いてくる』と評しています。

内田さんは『ペスト』という作品についてこう言っています。

一見、パニック・エンターテインメントの典型のようであるが、そこの域を超えている。ナチスドイツ統治下と占領のこと、レジスタンスと対独協力派のことを書いている。 しかし戦後2年という状況下では、どちらか一方の立場に立った(カミュレジスタンスであった)正義の名の下に一方を糾弾するという行為は、それこそまさにペストになってしまう。しかし歴史的大事件を経験したことを、作家としては書かないわけにはいかない。そこで、ペストというものに仮託して書いた。
 
 それでは、いよいよ『ペスト』最終回です。
この物語はどう締めくくられるのかを見ていきましょう。
 
※以下、引用部分はすべてアルベール・カミュ著『ペスト』より引用しています
 
ある晩、誰かが脱走に失敗して犠牲者が出ます。 自分は聖者になりたいというタルーにリウーは言いました。
「でも、君は神を信じていない」
「だからこそだよ。人は神なしで聖者になれるか。これこそ、今日僕の知るかぎり唯一の具体的な問題だ」
「僕は、聖者より敗北者のほうに連帯を感じる。ヒロイズムや聖者の美徳を求める気持ちはないみたいだ。僕が心を引かれるのは人間であることなんだよ」

 

タルーは二人の友情の印に海水浴をしようと誘います。
「ペストのなかだけで生きているなんてつまらないからね。もちろん犠牲者たちのために戦う必要はある。でも、ほかになんにも愛さなくなったら戦うことに何の意味がある?」
彼らの前には夜が果てしなく広がっていた。
リウーは(略)奇妙な幸福に満たされていた。タルーのほうを振りむくともの静かで真面目な顔の上にも同じ幸福が感じられた。リウーは友のところに行き同じリズムで泳いだ。
 
二人はいっとき、ペストが自分たちのことを忘れているように感じた。
 

このシーンをうけて中条先生は、

「ここで二人ははじめて友情を確認するわけだが、これは半年以上闘ってきたあとである。そのストイックさは忘れがたい」といい、
内田先生は、

「このシーンのあとに、二人で岸に戻っていくシーンがある。呼吸をあわせてただ同じようにして泳いでいくというところに「共感」が身体的実感としてあらわれている。こういうところにカミュの上手さがある」といいました。

 
2人のゲストの言葉のあとに、伊集院さんが言ったことに、私はとても共感しました。
 
人は神なしで聖者になれるのかということと、人間でいたいという二人がこれだけわかり合うということは、それがイコールであるということではないか。人が本当にシンプになったときには、とても神々しい存在なのではないかという感動を覚える」
 
神なしの聖者とは、人間がシンプルにただ人である姿なのかもしれません。ここでタルーが最初のほうで教会に行っていたことを思い出しました。
偶然、町に居合わせてしまっただけの旅行者タルーが、教会でパヌルー神父の説教「ペストという脅威のなかでも心正しいひとは恐れることはない」という言葉に突き動かされて保健隊にはいり、自分のできることを懸命にやってきました。そして長年自分のなかにペストがあったことに気づいたのです。
「人を殺すこと」への自分の態度。本当はこうでありたいのにそれを選べずに苦しんできたこと、それが内なるペストでした。人を殺すことを拒絶すると選んだいま、タルーは歴史から追放されたと認識しています。それは聖者になりたいという言葉と反しているようにみえますが、そこに彼が目指す聖者の姿が浮かび上がってきます。
ヒロイズムとか美徳を求める聖者ではなく、理念のために犠牲を払うのでもなく、日々闘いながら愛していく人間、それこそがタルーの目指す神なき聖者であり、リウーが心惹かれる「人間であること」ではないかと思いました。
 
12月の寒さのなかでもペストは衰退しながら居座っていましたが、 1月25日、ついに疫病の収束が宣言され、ペストの恐怖は終わろうとしていました。 そんなとき、ペルーが発病します。ペストでした。 リウーはペスト患者の隔離という禁を破り、タルーを自宅で看病します。
「僕は死にたくないし、戦い続けるつもりだ。だが、勝負に負けたら、あっさり終わりにしたいんだ」
「ダメだ」とリウーは言った。
「生きていなけりゃ聖者にはなれない。戦うんだ」
 
タルーはペストと戦い続けた末に、こう言います。
「ありがとう、いまこそすべてはよい」

 

そして翌日、激しい吐血と痙攣(けいれん)を起こして息絶えたのです。
タルーは自分でいったとおり、勝負に負けた。しかし、リウーは何を勝ちえたのか?彼が勝ちえたのは、ただ、ペストを知ったこと、そしてそれを忘れないこと。友情を知ったこと、そしてそれを忘れないこと。ペストと生命の勝負で人間が勝ちえたものは、認識と記憶だった。
タルーの葬儀の日、リウーのもとに、結核のため町の外で療養中だった妻が亡くなったという電報が届きました。
2月の晴れた朝、とうとう市の門が開くと町はいっきに祝祭ムードに包まれました。 ランベールはパリからやって来た恋人と再会し、皆が解放の歓喜に酔うなか、リウーはひとり黙々と歩き続けます。
暗い港から、公式の祝賀の最初の花火が上がった。コタール、タルー、リウーが愛し失った男たちと女、みんなが、死んだ者も罪を犯した者も、忘れられていた。そうして医師リウーは、ここに終わりを迎える物語を書こうと決心したのだった。沈黙する者たちの仲間にならないために。ペストに襲われた人々に有利な証言をおこなうために。そして災厄の最中で学んだこと、すなわち、人間のなかには軽蔑すべきものより、賞賛すべきもののほうが多い、と語るために
そして、物語はこう結ばれています。
ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもない。
そしておそらくいつの日か、人間に不幸と教えをもたらすために、ペストはネズミたちを目覚めさせ、どこか幸福な町に送り込むのである。

 

これをどういう終わりとするかは、難しいところです。

『ペスト』という不条理は決して消滅するものではなく、いつでもまた目を覚まし、ときには何かの力を借りて増強し、人々の生活に入ってきます。

そのときにまた、恐れおののくのではなく、過去に経験した記録と記憶を掘り起こして、 行動という武器で立ち向かっていくことが人間にはできる、ということを私は感じました。

 

ゲストのみなさんは次のようにお話されました。

 

内田先生の解説
最後の部分にカミュが託したのは、レジスタンスのなかで倒れていったすべての同胞たちに対する敬意と感謝がずいぶん込められていただろうし、リアルタイムでこれを読んだ多くの人たちは、最後の結末の言葉のなかに、それを読んだのではないだろうか。戦争が終わり勝った負けたとか善だ悪だという論争で塗り尽くされ、同胞たちが分断されたり戦ったりしているなかで、カミュは静かに死者たちのことを忘れないようにしようと呼びかけている。いちばん強かった政治的メッセージは「簡単に事のよしあしを語るな」ということで、これは同時代のフランス人たちに、本当に伝わったと思われる。その証拠に、ある種とても暗いこの小説であるにもかかわらず、発売とともに大評判となったのだから。
 
中条先生の解説
人間の肉体はペストに敗れてしまうけれど、記録を残すことで認識と記憶、つまり知ったということと、忘れないことが生きのびる。これは作家としての倫理ではないだろうか。

 

 『ペスト』から4年後、カミュは哲学的名著『反抗的人間』を発表しました。

その中の一節にこのような文章があります。

反抗は、すべての人間の上に、最初の価値をきずきあげる共通の場である。
われ反抗す、ゆえにわれら在り

この一節は、反抗をはじめるのは「われ」であっても、他社と連帯し「われら」となることで、人は孤独から抜け出し、不条理な現実に立ち向かえると読むことができます。

 

1957年、カミュは43歳の若さでノーベル文学賞を受賞。しかし、当時、故郷アルジェリア独立戦争の最中であった。反抗と連帯という思想から、カミュは全面的に独立に賛成するだろうと思われたが、独立派の爆弾による無差別殺人が起こると沈黙、アルジェリア人からもフランス人からも「裏切り者」「臆病者」というレッテルを貼られる。

 

独立への賛否を問われてカミュはこう言いました。

「私は正義を信じる。しかし正義より前に私の母を守るであろう」
1960年、突然の自動車事故でカミュは亡くなりました。

 

スタジオではゲスト指南役のお二人と伊集院光さんが、ここまで見てきたカミュの生き方、思想から感じたことを話し合います。

 

中条さん
反抗がすべての思考のベースになるという考え方だ。リウーの行動を支えたのも不条理な現実、ペストに対する反抗だったといえる。われが反抗したことによって、我らが存在するというように、われの反抗によって連帯が生じるといっている
 
内田さん
しかし実際にはそういうことをいうのはフランスにはカミュ1人しかいなくて、絶望的な孤立のうちに死んでいく。これはカミュ自身の期待を込めた言葉であったと思うが、反抗を基盤にした連帯というのは彼は生きているうちには見ることができなかった
 
伊集院さん
違和感やざわめきを感じることを言うと、まとまってから話せといわれるかもしれない。だが、まとまっていることというのは「まとめること」にバイアスがかかっているから、ざわめきを感じるということのほうが実は正しいという感じをここから受ける
 
内田さん
「ざわめき」というのは反抗の訳語としてはなかなかいい。ためらい・むかつき・ざわめき・腑に落ちない。このあたりが反抗の訳語ではないかと思う。腑に落ちないをベースになっているから説得力はない。
 
中条さん
アルジェリアで無差別の爆弾テロが起きてカミュが沈黙する。これは、独立という大義があったとしても人を殺すという行為にはカミュは賛成できない。ここで思い出されるのはタルーの言葉「歴史をつくるのは他の人々だ」である。独立戦争というのは歴史である。これによりアルジェリアは植民地支配から解放されるわけだが、カミュ独立戦争という歴史から追放されてしまう。
 
内田さん
このタルーの言葉はカミュの後半生を正確に言い当てた予言となった。
カミュは繰り返し、自分の体がもっている本来的な生物としての直感を丁寧に育てていくことを書いているが、僕自身はこの言葉の影響があって何十年も武道の稽古をしている。カミュの影響はあると思う。
 
伊集院さん
今回、作品を読んできて、何度も泣きそうになるようなことがあった。
そして最後にきて作品外のところで、カミュ自身の「私は正義を信じる。しかし正義より前に私の母を守るであろう」という言葉にグッときた。
カミュほどの人が、いろいろな理屈をこねてカウンター当ててくる人が、そんなに信頼するお母さんがいる。そしてそういう人が増えていくことが平和なのだろう。死んでほしくない、悲しませたくないという人たちの連帯が出来上がることが平和で、そして難しいのではないかと最後にドカンときた。
 
 
 
私は、いま自分が置かれている状況が『ペスト』の世界の状況と似ているからという理由で、この作品に興味を持ちました。
ですが、こうして読み終えてみて一番強く感じることは、「人はひとりでは生きられない」という、よく聞く言葉でした。
生命を維持するという意味においても一人ではかなわないし、また「生きる」ことという意味では、他者と関わっていくことが必ず必要だと感じました。
そのせいで不条理や憤り、悔しさや悲しみが起こって、嫌になってしまうかもしれません。自分が醜く情けなく感じて、すべてどうでもよくなってしまったりするかもしれません。
でもそういうザラザラした感じが、もしかしたら、自分を磨いてくれるのかもしれないと思いました。
ただこういうことばかりを考えていると、なんだ人生はあまり楽しそうじゃないぞという気がしてきてしまうので、少しいい方に考えてみます。
 
もし、私がそんなふうに、ためらったりもがくときには、それ自体が前向きな行動で、掴めそうで掴めないとイラつくのは、よくなりたいと願うからで、
それは単に、シンプルに、私は喜びの多い人生を送りたいだけなんです。
その「前向きな行動」は幸せに近づいていると考えるようにします。
 
 
ここまで4回にわたって『ペスト』と著者アルベール・カミュについて読んできました。記事というより私のための記録といった内容になってしまいました。ここまで読んでくださってありがとうございました。
みなさんも感じたこと、考えられたことをご自身でもどこかに記録されてみてはいかがでしょうか?人の気持ちや考えはいろいろなことで移ろったり、改められたりするものなので、今を記録しておくということは、案外重要なんじゃないかと思っています。
 
長々とありがとうございました。
 
それでは、また!!